「自分をあざむかない」 03−02−16
                       ルカ6:37〜42

 <人を裁くな。人を罪人だと決めるな。赦しなさい。与えなさい>
と主は言われます。「悪や不正を見逃せとの勧め」ではありません。
裁き合うことによる不毛ではなく、豊かさに進ませるために、このように
おっしゃってくださいます。

 <あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の
目の中にある丸太に気づかないのか>ともおっしゃいました。
痛い言葉です。人が自分に対して犯した罪は大きく赦しがたく感じ
ますが、自分が人に対して犯した罪はたいしたこととは思えず、
気づかないことすらあります。自分の罪に気づかないでいる愚かさを
反省させられます。自分にそんな愚かさがあるにもかかわらず、神の
ようになって人を裁くことに夢中になっている事に気づかされます。

 罪人の私たちには、本当に正しく人を裁くことができません(ヤコブ
4:12)。かえって、二人とも泥沼に落ちてしまうことの方が多いのです。
 私たちは、本当に正しく裁くことのお出来になる神を知っています。
そこに立つ時に、不毛を生み出すのではない、あり方が見えてきます。

 「自分の目の中にある丸太」は、自分では見えないものです。
罪人である私たちの目でそれに気づくことはできません。
その丸太の大きさ、太さに気づかせてくれるのは主の十字架です。
私たちが抱えていた罪は、神の御子が十字架にかからなければ
どうしようもなかった程大きかったのです。
 しかし同時に、主イエスの十字架は、その丸太のような罪を取り除く
出来事でもあることを、聖書は繰り返し告げてくれます。このことに
慰められ、私たちは喜んで生きる力を与えられています。

 主に丸太を取り除いていただいた私たちは、その主が相手の
丸太を取り除いてくださることも信じることが出来ます。
 相手の罪を指摘するだけでは、それを取り除けません。
 主によって人は初めて本当に変えられていくのです。
 それゆえ、祈り、主のご愛の大きさを指し示すのです。
 そこに不毛を生み出すのでなく、人を生かし、与える豊かさに
生きる唯一の道があります。